手術1 [癌と経過]

 20年余り前、父が亡くなった。父は病発覚後緊急手術をし、一旦退院できたものの間もなく再入院し、そのまま帰らぬ人となった。病気について本人は何処までわかっていたのだろうか。母のたっての希望ではあったのだが、もし本人に病名を告げていたら・・・。退院した間にしたい事があったかもしれない。行きたいところがあったかも。会いたい人がいたかも。言っておきたいことがあったかも・・・。「どこに行きたい?」「誰に会いたい?」「何が欲しい?」今後起こるであろうことをわかっていながら何も聞けない。その苦しみは、当人に病名を隠しているからに他ならなかった。

 今や、ネットにアクセスして、症状や治療法、薬剤の名を入力すれば大抵のことはわかる。病名を本人に隠して治療を続けることは、いまの時代不可能だ。隠し通せるものではない。勿論病状にもよるし、自分の病気について知りたくない人がいることも事実だ。ただ、当人が病名を知ることで、医師と本人そして家族の間には壁がなくなる。労わり、慰め、共に泣く。病室では笑顔、廊下で涙という辛い二つの顔を家族に強いることはないのだ。命を前に隠し事をする事は余りにも辛い。自身に何かあれば、本人に告知してほしいという気持ちが確定したのはその時だっただろう。


 翌朝、はやくに夫と長男、妹が来てくれた。何を話したか何をしていたか、よく覚えてはいない。只々不安を押し殺し、無事を祈ってくれている気持ちは伝わってきた。繁忙期にもかかわらず「休んで病院に行くように」と言ってくださった息子の上司にも感謝申し上げたい。

 看護師さんに導かれ、手術室まで歩いて向かう。後ろに家族が連なる。年輩の看護師さんがある医療ドラマの話をされていて、私は相槌を打つものの実はそのドラマを見たことはなかった。大きな自動扉の前で立ち止まり、「家族の方はここまでです。手術が終われば先生が説明に来られますので、待合室でお待ちください。」と言われる。一瞬走る緊張。振り返って「ついでに余分な脂肪もゴッソリ取ってもらい。」と悪態をつきながら手を出す息子と握手する。

 再び看護師さんと二人歩き出した背中で、ドアは静かに閉まった。その先の2枚目の扉だったろうか、「ここが手術室です。」と言われて一歩踏み入れたそこには意外な光景が広がっていた。白い個室と思っていた手術室は広い銀色の空間で、幾つものベッドや機械やオペ道具が点在していた。銀色の空間の頭上に色を見つけ、見上げると、そこには何十インチになるのだろうか、大きい液晶画面があった。導かれたベッドの上には私の名前と、横に伸びる棒グラフが表示されていた。グラフの上の小さな数字は手術予定時間だった。患者ごとの執刀部位、オペ時間などがまるで飛行機の発着スケジュールのように映し出されているのだった。

 手術着を着用した担当医と執刀医の部長先生は、壁際に置かれた椅子に腰かけ、準備が整うのを待たれていた。白衣の時とは別人のようだった。担当医は緊張した面持ちで、部長先生は静謐ながら真剣に、共に深く呼吸をしながら精神統一なさっていた。命を預かっているという責任をその表情に見て、心底感謝の念が沸いた。
 指示されるままベッドにのぼり、二人の看護師さんによって手術の準備が始まる。点滴用の血管が確保される。
「麻酔が入るとき、少しだけしみる感じがしますが大丈夫ですよ。」
「はい。」
「では麻酔が入ります。」
 点滴針のすぐ下の血管に、擦りむいた膝に消毒液を塗ったかのような痛みを感じた。と、ほぼ同時に意識はなくなった。
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奈良の新しいお店 ほうせき箱 [ぶらぶら]

 といっても、私が行ったのではなくww もうかき氷を一人前楽しむにはちょっと力が入るお年頃です。姪っ子ちゃんが行ってきたようで、写真を拝借いたします。

こちらは一番人気というマンゴーとヨーグルトのかき氷。
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かき氷とは言うけれど、氷はまるで雪のようにフワフワだとか。
どれどれ、他にどんな氷があるのかしらとメニューを見てみると

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これはやはり、ビーカーに入れて出してほしいと思うのは私だけ?
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旅から戻って [癌と経過]

 道案内の息子のスケジュールに合わせ、予定より一日短縮した旅だった。帰国便を待つ空港で、両替を入れた財布が綺麗に空になった。硬貨一枚すら残さなかった。
 帰国すぐ、お土産を持って母と妹に会いに行った。入院日が迫り、さすがにもう話さないわけにはいかなくなっていた。いいニュースのあとに悪いニュースを告げ、空気が変わったのをそのままに、そそくさと現地を後にした(笑)

 帰国後一旦空にした同じスーツケースに、今度は入院用品を詰めた。そう、これはすぐに帰る旅。私は元気になってもう一度ここに帰るのだ。

 指示された日の午後一番に入院手続きをした。建てられて間もない入院病棟は、テレビドラマに見るような清潔さだった。病棟を仕切るドアを通り、ナースセンターで名前を告げると、バーコードのついたアイデンティティバンドが手首に付けられた。「退院時まで外さないでください」というものらしい。とうとう人にもバーコードがつくようになったのねと思いながら病室へ向かう。

 はるか昔に入院したころ用意した「洗面具」「貸しテレビの契約」「付添い用簡易ベッド」などは過去の遺物だった。完全看護で原則付添いはなし。ベッド周りはすっきりとコンパクトにシステム化されて、小さな金庫まで付いていた。なによりの違いは、ベッドを囲むカーテンが常に引かれた状態だったことだ。短期間の入院とはいえ、お喋りのできる人がいる方がよかろうと思ったので大部屋を希望したのに、これは大きな誤算だった。「プライバシーがあってないのが入院患者」という常識は過去のものだった。(入院中、誰ひとり、カーテンが全開されることはついぞなかった。)

 ベッドが決まり、荷解きが済むころには、看護師さん、麻酔医、担当医、担当医と共に執刀にあたってくださる部長先生が、入れ代わり立ち代わり来られた。医師や看護師さんと患者とのコミュニケーションは、患者同士のそれとは違って多かった。「〇〇さ~~ん!」とカーテンの間からにこやかに顔を見せる女医さんは、告知をした時とは別人のようで、軽症の友人がたまたま勤務先に入院したかのように振舞ってくださっていた。

 その日、その他に特別何かをしていたのだろうか。決して楽しいわけではないので、同行した家族と何を話したか、よく覚えていない。いつの間にかひとりになっていた。早めの軽い夕食をとり、あとはベッドでひとり静かに夜を待つ。手術に不安はない。余計なことは考えず、起こったことと考えたこと感じたことは、今後何か役に立つかもしれないので書き留めるようにしよう。そう、それだけでいい。

 そして明日は手術。
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二人旅 [癌と経過]

結論から言うと、旅は楽しかった。

海外から戻ったばかりの息子は「パスポートがスタンプラリーのようだ」と言いながら、一昨日降り立ったばかりの関西国際空港を泳ぐように歩いていく。ジャイロ機能が壊れていると言われている私ひとり、久しぶりの海外旅行とくれば、きっと飛行機に乗り遅れていただろう。関西国際空港は広い。

初の台湾では、お約束のように故宮博物院に行き、夜市に行き、初回の観光客は行かなさそうなお店で揚げパンと熱い豆乳を口にした。息子の友人と合流し、地元で有名な飲茶のお店に行き、淡水という海辺の地を案内してもらった。

ホテルに戻ると、思いがけなくヨーロッパの娘が連絡をよこし、台湾でスカイプ通話することになった。心配と強がりとが複雑に入り混じった娘の顔は、海外暮らしで少し大人になったようだった。国際電話が高額で慌ただしく必要最小限だけ話した事や、手紙が届くのに少なくとも一週間はかかるために話題が噛み合わなかったのは遠い昔のようだ。
息子は私の体調を気遣いつつ、異国での安全に気を配りつつよくやってくれた。一人旅の次は母を守る旅。甘えん坊はうんと大人になっていた。

気がかりの種は探せばどこにでも落ちている。だからといって拾わなくていい。
いつまでも子。でも子供じゃない。負うた子に教えられ導かれ。
時代はどんどん変わっていく。

親の役割は終わったのだと知る旅だった。

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調べる 調べない

 告知と同時に、病院からは治療に関する冊子を手渡されていた。

 こういうものがあるということは、患者がそのくらい多いという事なのだろう。しかし読むのはまだいい。今しなければならないことはなんだ!?それを考え、行動に移すことの方が重要だった。
 ここから先は精密検査、手術、放射線投射、ホルモン療法とスケジュールは決まっている。レールは敷かれた。先ずは3週間後の手術。術後はしばらく動けまい。退院したあとは放射線治療がはじまる。温存療法とセットになっているということで、私の場合は週に5日を5週間連続投射が決まっている。放射線治療の副作用は人其々だというし、これもいくら考えてもしょうがない。

医師から腫瘤の大きさは聞いていた。2㎝が一つの区切りというが、私の場合はそれには満たないものだった。リンパ節への転移はどうだろう。手術の際に切開し細胞を検査に回すということだったな。それまではわからないということだ。仮に転移していてもステージは2である。転移していなければステージ1。
5年後の生存率は96.63%。

 ここまで調べて、以降、私は情報をあえて遮断した。

 ほんの少し調べるだけで、同時に様々な正確な情報とは言いきれぬものが目に飛び込んできたからだ。マンモによる被曝。細胞診で癌細胞が体に散る。放射線治療であらたな癌が生まれる等々。
 それが事実かどうかなど、知る由もない。マンモは受けたし、細胞診もした。過去には戻れないし放射線治療はまだ始まっていない。でもこれを断るつもりはない。
医療機関が公示している数値。エビデンス。今はそれだけでいい。データは発表する側の都合に良いように「見せられる」ものだとはいうが、それを疑い始めたらきりがない。
 
 我が家の様子をいつも塀越しに覗き見する隣人は、いつもにもまして慌ただしく出入りを繰り返す我が家の様子を、暗がりから亡霊のように覗いていた。これまでは不快感をもって見ていたが、今はそれすら惜しい。

「余計なことは考えない」

 母と妹に告げることは保留にして、関係先には連絡は済んだ。精密検査の日も決まった。入院に必要なものも揃えた。思っていた場所とは違ったものの海外旅行の手続きもした。

 今に集中すること、目標を作ること、そして思い切りと少しのお金があれば、限られた時間の中でこれだけのことが出来るのだ。なのに私は今まで何をしてきたのか。無用なことばかりに時間やエネルギーを棄てていたのではないか。

冊子.jpg

目の前から追いやったもののテーブルの隅には冊子を置いたまま、台所に立って私は初めて悔し泣きをした。

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数日あれば2 [癌と経過]

「台湾には友人がいるよ。今たしか国にいるはず。」

パソコン画面を見つめていると、息子が突然言い出した。

すぐさま連絡を取り合った青年二人。台湾で会うことになった。

つまり、急遽親子二人の旅になったわけである。

とはいえ、ツアーはどこも締め切られた後で、ホテルの空室状況も[×]印ばかり。さあどうする。空港ロビーでホームレスか?そもそも座席はあるのか?

これ以上のことは出来ないと、とりあえず眠り、翌日旅行社で直接かけあうことにした。

翌朝足早に向かった旅行社では、さすがに餅は餅屋というところで、出発日間際ではあったものの希望駅から徒歩圏のホテルに部屋が見つかった。
どこに泊まるかより、先ずは飛行機の確保が先に立つので調べてもらうと、なんと座席は残り二席とのこと。悲鳴のように「とにかく押えて!!」というと、担当の若いお姉さんはカウンター後方のパソコンにひとっとび。最後の2席を確保できた。瞬殺である。

ふとした瞬間に自分の置かれている状況は頭をよぎるけれど、慌ただしくゴリ押しでも事を進めると、その間は目の前のことに集中できるものだ。特に今回のような縛りがあると、何とか突破しようと頭脳も体もフル回転させられるものである。文字通り「窮すれば通ず」。

保険やらWi-Fiやらの支払いをすませ、帰り道でリムジンバスを予約した。次の診察日、担当医に「〇日から〇日まで台湾に行ってきます。入院日前には戻ります。」と伝えたら、「はい。台湾いいですねぇ。」と返事が返ってきた。

よし、大丈夫。
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数日あれば [癌と経過]

 春になれば、娘の住むヨーローッパを旅するつもりだった。見たい彫刻があった。触れたい景色があった。パスポートが切れていないか確認し、4月にするかそれとも5月にしようか、どのくらい滞在しようか。考えるのは楽しい時間だった。
でも生身の体は機械のようにはいかない。修理が終われば即元通りというわけにはいかないのだ。手術と治療になれば今年の長旅は無理だろう。良くなったら、体調が戻ったらまたいつか・・。
 そして、旅はいつ来るともわからない先に持ち越されてしまった。


 でも、具体的に進んでもいなかった「春になれば」と、溜息まじりの嘲笑にも似た「いつか」の話の違いはどこにあるというのか。具体的に何の動きもないまだ来ない先の話という意味では、どちらも大差ないのだ。
 入院そして手術。その後に続く一連の治療スケジュール。「いつか」ではない現実が突き付けられている今、その日までの毎日がクリアになった。普段なら何気なく予定を書き込むだけの壁掛けカレンダーの枡が、厚みを伴う時間という板になった気がした。

 何かしなくては。ここに刻印せねば。

 全身の精密検査はけっこう堪えるかも知れない。検査の翌日は休息日としよう。手術はこの日だから、前日には入院手続きのはず。
 そんな風に日にちを絞っていくと、入院前に数日の空白が生まれた。何をしてもいい自由時間が可視化した。
私はパソコンを開いた。
 これだけあれば、欧州旅行は無理でも国内なら大丈夫だ。手術後は温泉は無理だし、今のうちに外湯めぐりもいいかもしれない。それならと、九州の温泉地帯を巡るプランを先ず考えた。音楽の盛んな福岡を経由して戻るのはどうだろう。
 ところが、何せ予約するにも直前。スケジュールは強硬。移動距離も思ったより長く、いろいろと組み合わせを変えてもうまくいかない。
 これはダメ出しをされているのか?と思い始めた時に、ふと台湾の情報が飛び込んできた。日程は十分。ただし、ツアーはどれも締め切られた後。当たり前と言えば当たり前だろう。これはもう、個人旅行で行くしかないか。言葉もわからず、思い付きでいく個人旅行。果たして無事に行けるのか、そして期日までにちゃんと帰ってこれるのか?こんな状態では気を遣わせるに違いないので、友人を誘うわけにもいかない。そもそも私のフットワークの軽さは折り紙付きで、普段ですら付き合いきれないのに、こんな直前の誘いに乗ってくれる友人は皆無だろう。
 そんなこんなで「行く!」とは決めたものの、次の一歩が出ないままパソコンの前でフリーズする私。

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