再び歩いてみる [采女]

私は再び歩いてみることにした。と言っても、今回は遠い福島県を目指すのではなく、平城京とその周辺。生まれ育った土地だもの楽勝だ。土地の高低、方向、地名、何処から何処までは大体この距離だとか、難なくわかる。
ところが意外や意外、1300年の時の流れが邪魔をした。
変わらない奈良も1300年も経つと結構変わっていた。羅城門なんて、佐保川の中から見つかったという。川の流れが変わっていた。都はご存知の通り。今でこそ平城宮跡として保全管理されているようだが、長らく畑だったそう。

さて、上皇達は内裏から朱雀門を出て、羅城門までまっすぐの大路を南下したとする。現在、ここにはそんな大路は残っていない。なので、羅城門跡まで歩いた事にして、そこから東に向かうことにしよう。

羅城門から東へ東一坊大路、東ニ坊大路、東三坊大路、そして東四坊大路が京の南東の角にあたる。
この角には大きな池がある。「五徳池」。本屋さんで手に入れた地図にはそう書かれてあった。
ところが。
グーグルマップでルートを確かめていると、そこに表示されたのは「越田池」の文字。

え?ここが?

日本後紀に
12日大和国添上郡越田村に至り給う、すなわち甲兵前を遮り、行くところを知らず、これより先、中納言藤原葛野麻呂、〇〇輿を遮りて固く戒む、然れども聴かずして〇〇を催し進め給う、〇〇〇〇〇〇宮に旋り剃髪入道セラル、薬子輦を同じうして供奉せしが、衆悪の己に帰するを知り薬を仰いで死す。

ここに書かれた越田村というのは、この辺りだったのか。

おや、待てよ。

11日早朝、太上天皇川口道をとって東国に入らせらる。中略 この夜、仲成を禁所に射殺セシム。

ここは碁盤の目に刻まれた平城京の南東の角。前日の早朝に宮廷を出て、どうしてここで兵隊に行手を遮られるのだ。まだ都から出てもいないのに。
上皇は11日早朝からの丸一日をどこで過ごされていたのだろう。

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