采女祭〜奈良 [采女]

取り急ぎごれんらく。
9月最後の満月下で、采女祭が開催されます。
写真がひっくり返りましてすみません。
奈良に生まれて育ったけれど、実は観に行ったことがない。今年こそは行くのだ。

IMG_5005.jpeg
公式情報は、以下よりご覧ください。

nice!(2)  コメント(0) 

1400年後の世界 [采女]

現代の研究者によると、薬子の変は寵姫とその兄によるクーデターではなく、兄弟間の権力闘争だったという見解になっている。それでもなお、退位した平城太上天皇によって引き起こされたものとして「平城太上天皇の変」とはなんぞや。時の権力者である嵯峨天皇の名を冠してしまうと、正当な手続の元で行なわれた皇位継承にも影を落とすからだろう。いっそのこと「乙巳の変」と名を変えた「大化の改新」のように、「大同の変」とかなんとかにすれば良いのかも。あっちにもこっちにも顔が立つしw

ともかくも、もう令和の時代である。810年の内乱を冷静に歴史判断するだけの時間は、充分に経過したとして良いのではなかろうか。名も知れぬ采女に本来の名前を戻し、一千年以上の沈黙に光を当てて慰めても良いのではないか。
中秋の名月の夜、池に舟を浮かべて御霊を慰めるのもいい。が、自死を選ばされた人の真実を、そろそろ明らかにして差し上げてもいい頃ではないか。

昭和、平成、令和。
それは、およそ薬子の変が起こってから、良世が神社を建てるまでと同じだけの時間だ。時代の流れは加速するばかり。価値観も常識も、全くといっていいほど様変わりをしている。
大同年間の大事件。薬子の変と、誰かが起こしたと記す必要はもうないだろう。
勝者によって歪められたり削られたりした歴史を、令和で明らかにできたらと切に願う。


nice!(3)  コメント(0) 

ひっそりと [采女]

身を投げた猿沢池を見るに忍びないと、社はひと夜のうちにくるりと背を向けたと伝えられる。
今でこそ、新しくなった朱塗りの塀に囲まれて、縁結びだのなんだのと看板でアピールしているが、采女神社は少し前までは、ひっそりとした佇まいにあった。入水した池に背を向けるというよりは、都の方を向いているような。拝む人の姿を隠すような造りにもみえる。通常門が閉じられているのは、むやみに人を寄せつけまいとしているのだろう。

薬による自死ではなく入水したという話。女の入水によって穢れた池を離れ、春日山の南に移った竜が、そこにも死体が捨てられた為にその地を去ったという話。池も山も藤原一族に関係する場所だ。池から竜が移動したという春日山の南には、小さな祠がある。死体が捨てられた場所を指すのだろうか。名も知れぬ死体なら、祠があるのもおかしな話だ。采女と死体はおそらく同一人物なのだろう。そうと悟られないように死因をすり替え、埋葬場所を竜の姿を借りて後世に伝えたのでは。あちこちに、それとはなくその存在を匂わせながら、誰と言えずに100年近くの年月を経て、やっとその人を祀ることができたのだろう。大いなる権力者の力をもって、ひっそりと。

nice!(3)  コメント(0) 

藤原良世 [采女]

采女神社は藤原良世公卿(823〜900)の建立と記録されている。良世は初代藤氏長者を務めたとされ、興福寺縁起の選者でもあるそうだ。姉は太皇太后・藤原明子であり、良世は長年、皇太后宮大夫・太皇太后宮大夫として仕えた。これ以上はない高位に長年在したといえる。その良世が、この小さな神社を建立したとはどういうことだろう。光仁天皇、文徳天皇、清和天皇、陽成天皇、光孝天皇、宇多天皇そして醍醐天皇と、長年に渡り平安朝代々の天皇に仕えてきた大臣が、どうして氏寺に采女を祀る神社を建てる必要があったのだろう。
藤原氏の寺である興福寺の境内で、帝の寵愛を無くした為にその身を投げた采女。京都に都が移ったのちの出来事なら、寵愛を失ったからといってわざわざ奈良の寺で入水するだろうか。そしてその名もなき采女を、しかも七代以上帝位が変わった後に、藤原長者が社を設けて祀ったのはなぜだ。

、、いや、采女に名はあったのだ。名乗れない事情があったのだ。当時は祟りを非常に恐れた時代である。そんな時代にあったからこそ、祟らないように、しかし名は伏せて祀る必要があったのではなかろうか。
左大臣という最高位につき藤長者でもあり、姉は太皇太后でその大夫という揺るぎなき権力と財力があった良世。そこまでの地位と権力を持ってして、やっと薬子を祀れたのではないか。しかし、それでもその名は永遠に伏せたままに。どこからどんな些細な疑いもかけられてはいけないのだ。天武帝天智帝両方の血を受け継ぎ、国政の中枢にいたあのサラブレッド長屋王でさえ、謀反の疑いをかけられて追い落とされたのだから。



nice!(4)  コメント(0) 

決定打 [采女]

薬子は、王権の争いと同族の権力闘争の間にあって、翻弄された女性だったのでは。そこには藤原の勢力争いもあり、寺の力関係もあった。もちろん、本人にも式家の権力を高めたいという欲はあっただろう。娘の入内だってそうだ。年頃の娘を持てば、権力に一歩近づく手段として誰もがそうしたのだから。それが思いもかけず、母親の自分が寵愛されただけ。

譲位されたとはいえ、当時の在り方では上皇として旧都から政治を行うことができた。譲位してから健康状態の良くなった上皇は、再び奈良に還都すると仰せになった。これを薬子達が唆したと言われているが、やはりこれは上皇本人の意志だったと思う。

ところが嵯峨天皇は何枚も上手だった。
天皇は、遷都(この場合は還都になるだろう)の命に従ってみせたのだ。従うふりで配下を配置、関所を抑え、上皇側の頭脳とも呼べる人間達を平安京に呼び寄せた。それに比べて、上皇のなんとのんびりしたことだろう。平城上皇は油断してしまった。配下からの情報を止められ、談合をさせないようにされたとも知らず、伝令を関所から外に出さないようにされたとも知らず。

空白の一日は、東大寺にいたのではないか。川口道を通って、伊勢に還都の報告をするつもりだったのではないか。そうでなければ、薬子と輿に同乗して行くというのが腑に落ちない。輿に寵姫と同乗など、戦いをするとは思えない優雅さなのだ。
都を発った翌日、越田村で甲兵に道を遮られ、そこには中納言藤原葛野麻呂が配置されていた。
中納言と甲兵を前に、剥き身のような脆弱な上皇一団は宮殿に戻るしかない。上皇は、この場を境に帝に対する謀反人の汚名を着せられるかもしれない、という危惧を抱いたに違いない。早良親王に謀反人の汚名を着せて地位を剥奪し、死に追いやったと同様に。その壮絶な最期を知っているからこそ、上皇はあれほど早良親王の怨念を恐れたのだろう。これから我が身に押される謀反の烙印、追放、流刑地までに断たれるであろう命。
越田村で空を仰ぎ見る。都を振り返るとその目に大仏殿の鴟尾が映った。仏門に入り、仏の加護を得て命を保つ以外に助かる方法はない。地位も権力も、そばに置き続けた女をも投げ出すしか生きる道はない。

そして、彼女は全ての罪を押し付けられて散った。
nice!(4)  コメント(0) 

亡き骸 [采女]

猿沢池には采女のほか、龍の話も残っている。

猿沢の池には龍が棲んでいた。が、采女の身投げで池は穢れ、怒った龍は春日山に飛んで行った。しかしながらそこにも死体が捨てる者がいて、龍は再び別の住処を求めた。それが室生寺近くにある室生龍穴神社、吉祥龍穴である。

毒を仰いだ謀反の骸は、祀られることなく山中に捨てられた。そう、薬子の遺体は春日山に葬られたのだわ。


nice!(3)  コメント(0) 

そして独り [采女]

十二日、上皇は宮廷に戻り、剃髪して入道されたという。しかし、上皇ともあられる方が、普通に剃髪なさるわけなどなかろう。その後何年も経ってのち、灌頂を受けられる際の記録を見ると、東大寺にて空海により灌頂を受けられたとあるのだ。空海は件の乱にて嵯峨天皇のために祈祷され勝利を導いたという。それで、その後高野山の大躍進となるのだ。灌頂の際に空海ほどの僧がその儀式をするのは勿論だが、12日に越田から宮廷に戻られて剃髪されたというのに、一般(失礼)の僧侶が対応するわけがない。なにせ時の上皇が御髪を落とされるのである。

おそらく、上皇の入道される際の一切の儀式は東大寺の僧侶によるものだろう。都を一歩出た越田村が既に嵯峨天皇の支配下にあると知って形勢不利を確信した上皇は、宮廷に無事に生きて戻るための策をとったはず。それは仏法つまり寺に守られること。敵意のないことを示すこと。これまでの数多くの皇子が採った方法だ。
薬子はその官位を剥奪された。上皇の寵愛があるだけの、今やただの女官である。兄の藤原仲成は前夜に私刑となっていた。法で裁かれるのではなく射殺という形で。(父親同様に射殺される、これは偶然だろうか。)つまり、反撃の兵が来ることはもうない。式家の再興を夢見たであろう仲成と薬子であっただろうが、藤原四氏の勢力図もここで一つの節目を迎えたわけだ。藤原氏の勢力争いからも蹴落とされた式家。今や藤原家ですら援護しない。己の身を守るためには、謀反人とされた女とともに宮廷に戻ることはできない。
そう、この時上皇は薬子を捨てたのだろう。

東大寺の僧侶によって守られながら、上皇は西へ、平城京へ戻る。さっきまで輿に同乗していた薬子を乗せることはもうできない。帝から、寺から、民から、誹りを受ける女を。藤原の寺である興福寺ですら、謀反人である式家の、しかも官位を剥奪された女官を保護しようとする者はいない。官位を剥奪されたただの女は、仲成のように敵勢力から射殺されるほどのことはない。都への戻り道で、彼女は置き去りにされたのではなかろうか。
おそらく、薬子は死を選ばされたのだろう。上皇と都に戻ることは叶わず、藤原の寺にも保護されず、頼みの兄は既に殺されていた。ここからは想像に過ぎないが、興福寺の境内にあっても行き場のない薬子は、猿沢の池にまろび出る。毒を仰ぎ、その身は放生池に崩れ落ちる。胸までしかない水の浅い池で、彼女は溺れて息絶えたのかもしれない。

nice!(3)  コメント(0) 

再び歩いてみる [采女]

私は再び歩いてみることにした。と言っても、今回は遠い福島県を目指すのではなく、平城京とその周辺。生まれ育った土地だもの楽勝だ。土地の高低、方向、地名、何処から何処までは大体この距離だとか、難なくわかる。
ところが意外や意外、1300年の時の流れが邪魔をした。
変わらない奈良も1300年も経つと結構変わっていた。羅城門なんて、佐保川の中から見つかったという。川の流れが変わっていた。都はご存知の通り。今でこそ平城宮跡として保全管理されているようだが、長らく畑だったそう。

さて、上皇達は内裏から朱雀門を出て、羅城門までまっすぐの大路を南下したとする。現在、ここにはそんな大路は残っていない。なので、羅城門跡まで歩いた事にして、そこから東に向かうことにしよう。

羅城門から東へ東一坊大路、東ニ坊大路、東三坊大路、そして東四坊大路が京の南東の角にあたる。
この角には大きな池がある。「五徳池」。本屋さんで手に入れた地図にはそう書かれてあった。
ところが。
グーグルマップでルートを確かめていると、そこに表示されたのは「越田池」の文字。

え?ここが?

日本後紀に
12日大和国添上郡越田村に至り給う、すなわち甲兵前を遮り、行くところを知らず、これより先、中納言藤原葛野麻呂、〇〇輿を遮りて固く戒む、然れども聴かずして〇〇を催し進め給う、〇〇〇〇〇〇宮に旋り剃髪入道セラル、薬子輦を同じうして供奉せしが、衆悪の己に帰するを知り薬を仰いで死す。

ここに書かれた越田村というのは、この辺りだったのか。

おや、待てよ。

11日早朝、太上天皇川口道をとって東国に入らせらる。中略 この夜、仲成を禁所に射殺セシム。

ここは碁盤の目に刻まれた平城京の南東の角。前日の早朝に宮廷を出て、どうしてここで兵隊に行手を遮られるのだ。まだ都から出てもいないのに。
上皇は11日早朝からの丸一日をどこで過ごされていたのだろう。

nice!(3)  コメント(0) 

見つけた! [采女]

平城天皇:桓武天皇の第1皇子。父帝の逝去に伴い即位する。しかし、病気を理由に3年で弟宮神野親王(のちの嵯峨天皇)に譲位。譲位後平城上皇となり、旧都である平城京に移り住む。二都朝廷の現出。妃の母であった藤原薬子を寵愛し、その兄、藤原仲成を重用する。平城京に還都を宣言。これに反対した嵯峨天皇の先制により、輿で東に行こうとする途中で制止され、平城京に戻り剃髪。仲成は射殺。薬子は服毒自殺する。「薬子の変」である。
平城上皇の妃の数名は、この後離縁したという記録がある。

「薬子だ。」

猿沢の采女は薬子だったんだ。

あまたいる采女の一人が入水したからといって、帝がそれほど嘆くことはなかろう。
父帝によって引き離されたにも関わらず、自身が即位すると再びそばに置いた薬子。それほど寵愛した薬子だからこそ、帝はその死を嘆き悲しんだのだ。
高校の教科書で知った数行だけの歴史『薬子の変』は、「女性が起こした初めてのクーデター」という印象で記憶に残っていた。でも教科書には詳細はなく、単語カード一枚分程度の記載は、受験勉強の山に埋もれてしまった。時の権力者を思いのまま操つろうとして失脚した魔性の女。どんな妖艶な女性だったんだろう。傾国の美女だったんだろうか。
受験が終われば二度と出会うことのない名前だろうに、私は憶えていた。その名を知った時の感情と共に。

でも何故猿沢池なんだろう。何があったのだろう。そして采女神社の謎は?

nice!(3)  コメント(0) 

采女神社 [采女]

采女神社について。
和英ガイド本によると「9世紀の初めに天皇に恋をした一人の女官が(平城)天皇の寵愛を失くしたと思い、嘆いて猿沢池に身を投げて自殺をした。」(一部抜粋)とある。
史実から絞り込んでいった帝の名が、既にここに書いてあったというわけか。ちょっと遠回りした感が無くはないが、まあいい。桓武天皇についての調査は後程ということにして、次は平城天皇について知ろうと思う。勿論だが、ガイド記載の(平城)天皇云々の根拠も探さないと。何事も鵜呑みにしてはいけない。というのは、前述の柿本人麻呂の件があるから。

公益社団法人 奈良市観光協会のホームページは以下の通り。
https://narashikanko.or.jp/spot/shrine/uneme-jinja/

お読みいただいたらわかるように、ここでは「『大和物語』によると」と書かれている。
物語なのに、その内容を神社建立の根拠のように示すというのはかなり疑問がある。良いのかなそんなこと書いて。
とはいうものの、大和物語を元にして興福寺境内に神社を建てる、というようなことはあるまい。
一体この神社、誰が建てたの?いつ建てたの?

どうやらこの神社、藤原良世公卿(823〜900)の建立らしい。ほら、面白くなってきましたよ。この方、平安時代のお生まれ。それなのになんで、平城天皇に捨てられて嘆き悲しんだ采女を祀っていることになっているんだろう。

ところで、平城天皇ってどんな方?


nice!(3)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。