決定打 [采女]

薬子は、王権の争いと同族の権力闘争の間にあって、翻弄された女性だったのでは。そこには藤原の勢力争いもあり、寺の力関係もあった。もちろん、本人にも式家の権力を高めたいという欲はあっただろう。娘の入内だってそうだ。年頃の娘を持てば、権力に一歩近づく手段として誰もがそうしたのだから。それが思いもかけず、母親の自分が寵愛されただけ。

譲位されたとはいえ、当時の在り方では上皇として旧都から政治を行うことができた。譲位してから健康状態の良くなった上皇は、再び奈良に還都すると仰せになった。これを薬子達が唆したと言われているが、やはりこれは上皇本人の意志だったと思う。

ところが嵯峨天皇は何枚も上手だった。
天皇は、遷都(この場合は還都になるだろう)の命に従ってみせたのだ。従うふりで配下を配置、関所を抑え、上皇側の頭脳とも呼べる人間達を平安京に呼び寄せた。それに比べて、上皇のなんとのんびりしたことだろう。平城上皇は油断してしまった。配下からの情報を止められ、談合をさせないようにされたとも知らず、伝令を関所から外に出さないようにされたとも知らず。

空白の一日は、東大寺にいたのではないか。川口道を通って、伊勢に還都の報告をするつもりだったのではないか。そうでなければ、薬子と輿に同乗して行くというのが腑に落ちない。輿に寵姫と同乗など、戦いをするとは思えない優雅さなのだ。
都を発った翌日、越田村で甲兵に道を遮られ、そこには中納言藤原葛野麻呂が配置されていた。
中納言と甲兵を前に、剥き身のような脆弱な上皇一団は宮殿に戻るしかない。上皇は、この場を境に帝に対する謀反人の汚名を着せられるかもしれない、という危惧を抱いたに違いない。早良親王に謀反人の汚名を着せて地位を剥奪し、死に追いやったと同様に。その壮絶な最期を知っているからこそ、上皇はあれほど早良親王の怨念を恐れたのだろう。これから我が身に押される謀反の烙印、追放、流刑地までに断たれるであろう命。
越田村で空を仰ぎ見る。都を振り返るとその目に大仏殿の鴟尾が映った。仏門に入り、仏の加護を得て命を保つ以外に助かる方法はない。地位も権力も、そばに置き続けた女をも投げ出すしか生きる道はない。

そして、彼女は全ての罪を押し付けられて散った。
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