そして独り [采女]

十二日、上皇は宮廷に戻り、剃髪して入道されたという。しかし、上皇ともあられる方が、普通に剃髪なさるわけなどなかろう。その後何年も経ってのち、灌頂を受けられる際の記録を見ると、東大寺にて空海により灌頂を受けられたとあるのだ。空海は件の乱にて嵯峨天皇のために祈祷され勝利を導いたという。それで、その後高野山の大躍進となるのだ。灌頂の際に空海ほどの僧がその儀式をするのは勿論だが、12日に越田から宮廷に戻られて剃髪されたというのに、一般(失礼)の僧侶が対応するわけがない。なにせ時の上皇が御髪を落とされるのである。

おそらく、上皇の入道される際の一切の儀式は東大寺の僧侶によるものだろう。都を一歩出た越田村が既に嵯峨天皇の支配下にあると知って形勢不利を確信した上皇は、宮廷に無事に生きて戻るための策をとったはず。それは仏法つまり寺に守られること。敵意のないことを示すこと。これまでの数多くの皇子が採った方法だ。
薬子はその官位を剥奪された。上皇の寵愛があるだけの、今やただの女官である。兄の藤原仲成は前夜に私刑となっていた。法で裁かれるのではなく射殺という形で。(父親同様に射殺される、これは偶然だろうか。)つまり、反撃の兵が来ることはもうない。式家の再興を夢見たであろう仲成と薬子であっただろうが、藤原四氏の勢力図もここで一つの節目を迎えたわけだ。藤原氏の勢力争いからも蹴落とされた式家。今や藤原家ですら援護しない。己の身を守るためには、謀反人とされた女とともに宮廷に戻ることはできない。
そう、この時上皇は薬子を捨てたのだろう。

東大寺の僧侶によって守られながら、上皇は西へ、平城京へ戻る。さっきまで輿に同乗していた薬子を乗せることはもうできない。帝から、寺から、民から、誹りを受ける女を。藤原の寺である興福寺ですら、謀反人である式家の、しかも官位を剥奪された女官を保護しようとする者はいない。官位を剥奪されたただの女は、仲成のように敵勢力から射殺されるほどのことはない。都への戻り道で、彼女は置き去りにされたのではなかろうか。
おそらく、薬子は死を選ばされたのだろう。上皇と都に戻ることは叶わず、藤原の寺にも保護されず、頼みの兄は既に殺されていた。ここからは想像に過ぎないが、興福寺の境内にあっても行き場のない薬子は、猿沢の池にまろび出る。毒を仰ぎ、その身は放生池に崩れ落ちる。胸までしかない水の浅い池で、彼女は溺れて息絶えたのかもしれない。

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