再考〜時代から絞っていく [采女]

奈良時代は710年から794年。猿沢池の成立が749年だから、この間在位の帝は

孝謙天皇 (749〜758)
淳仁天皇 (758〜764)
称徳天皇 (764〜770)
光仁天皇 (770〜781)
桓武天皇 (781〜806)
平城天皇 (806〜809)

794年平安京に遷都が行われる。「鳴くよ鶯 平安京」だ。懐かしい語呂合わせだ。
桓武天皇のあと即位された平城天皇は、上皇となってから還都の命を出し、平城京に住まわれた。厳密にいうと奈良時代の帝ではないが、
孝謙天皇と称徳天皇は同じ方なので、五人の帝がこの間おられたことになる。その寵愛を失って嘆きの余り云々、ということだから女帝ではなかろう。ということは四人。

淳仁天皇は、藤原仲麻呂の乱によって失脚した帝である。元々、帝位には遠かったのだが、藤原仲麻呂による策謀で皇太子となった。天平2年(758)即位したものの、仲麻呂の後ろ盾でもあった光明皇后が亡くなり、道鏡の登場、孝謙上皇との不和、藤原仲麻呂の乱での敗北、廃帝。諡号が与えられたのは明治になってからという、悲劇の帝だ。
この人ではあるまい。猿沢のほとりで、采女をおもいやって嘆く余裕などなかろう。

孝謙天皇はその後重祚して称徳天皇となった。が、そこからあの!道鏡、宇佐八幡宮事件に繋がっていく。この辺り、読み物としてなら面白いけれど、実際にあったお話だから大変だ。
その称徳天皇の没後、帝位についたのが光仁天皇となる。709年生まれなので、この時齢62である。この方は定位につくまでは、お酒を飲んで無能を装っていたという。これまで数々の推定皇位継承権者たちが、敵の罠に堕ちて命を失ってきた。この親王は見てきたはずだ。有能と血統がどれほど身の危険につながるかを。だからこそ酒好き親王のふりをしていたのだろう。すごい酒豪だなぁとも思うが、それは置いといて。
帝位に興味などなく、我が友は酒よと芝居していた親王が、結果的に帝に擁立された。この即位の意義は、ここで皇位継承者が天武系から天智系へと大転換したことだ。結果的に、この天皇の皇子である桓武天皇が平安京を造る。
いやはや、調べれば調べるほど、奈良時代の権力闘争や謀略の物凄さに眩暈がする。

いろんな文献を読んだり、孝謙(称徳)天皇陵を訪れたり、平城京跡に建てられた大極殿に行ってみたり。ジモティ故、図書館には専門書がたっぷり。あちこちに出没しては当時を想像した。ちなみに、私はまだ行ったことがないけれど、奈良の観光案内として少々追記。
大安寺光仁会(がん封じささ酒祭)は、この光仁天皇に由来するものです。機会があればどうぞ奈良にお運びくださいね。http://www.daianji.or.jp/event/

おや?

奈良歴史散策ガイド(英/和)に、采女神社に関する記述を見つけた。これは何だろう。

nice!(3)  コメント(0) 

采女は誰〜再考〜 [采女]

ふりだしに戻ったものの、これはこれで良しと思える。無駄足だったとは感じなかった。エジソンが竹フィラメントにたどり着くまでの実験同様と思えば良い。これでは出来ないとかこれは違うとか、そういう事がわかればそれは成果なのよ。いろんな情報を一つ一つ確かめて潰していく。そして浮かび上がってくものがいくら奇っ怪であっても、それが真実なんだ。

ふたたび、猿沢池のほとりに立ってみた。

スターバックスがあり、采女神社があり、ライオンズクラブの寄贈による采女祭りの石碑が置かれている。池を覗き込むと、薄青い水の下に白っぽい石が見える。手を伸ばせば底に触れそうな浅さだ。
やっぱり入水は無理よ。水深1メートルって、小学校のプール並みよ。

「わぎもこが 寝くたれ髪を猿沢の 池の玉藻と見るぞ悲しき」
と柿本人麻呂が詠んだ歌に、帝(平城天皇)

「猿沢の池もつらしな 我妹子が 玉もかづかば水もひなまし」
と返されたという。

でも、ここに出てくる柿本人麻呂は660年ごろの生まれで724年没とされる。
平城天皇の父君、桓武天皇(737〜806)ですら誕生されていないのに、誰と誰が何処の歌を詠んだって?

これは大和物語の一節らしい。つまりは小説の一部だ。
あまりに切ないお歌なので、ついついその世界に入ってしまいそうになる。でもこれはお話。
つまりは、柿本人麻呂はこの歌を詠んではいないし、平城帝も返歌を作ってはいないのでした。

ん?
平城京。平安京。
采女を寵愛した帝。
猿沢池のほとりの神社。

もしかしたら、私は違う方向を見ていたんじゃないか。
nice!(4)  コメント(0) 

猿沢の采女「安積媛」説 検証結果 [采女]

猿沢池は、興福寺境内にある放生池だ。水深は1メートルときく。歩いて向こう岸に渡れるくらい。でもここで入水したというのだから、何かはあったのだろう。水に入っていく姿を見たとか或いは入ったような形跡があったとか。実際に采女の遺体が上がったとか。

入水前に衣を柳に掛けたという一説もある。が、今ある柳は後の時代の植樹によるものだけどね。もしかしたら衣を残して死んだふりをして逃げたとも考えられる。死んだと見做されたら、追っ手はこないだろう。
そんな中、出会ったのが安積媛だった。きっとこの人だ。入水したと見せかけて恋人の元に走ったのよ。

私は、外から内からルンルンと調査を開始した。女性の足で700キロメートル歩けるか。当時の道は?橋は?宿は?研究とはこういうことかと初めて知った。勉強とは違う楽しさだった。

先ずは目的地までの10分の1程度を歩いてみ田。歩けなくはないが厳しいことを実感した。梅雨で歩けない間には、四日市から先への道を考えた。川はどうやって越えよう。租庸調の人流が途絶える頃に橋の修理が行われたというから、もしかしたら橋全般が渡れなかったかも知れない。ここから先は、川止めのない東山道をとったほうがいいだろう。

ところが、図書館で史実を突き合わせているうちに、自身の立てた仮説の答えが出てしまった。
安積媛は猿沢の采女ではない。
nice!(3)  コメント(0) 

加佐登〜四日市 [采女]

電車と車を併用して少しずつ距離を伸ばしてきた。前回の終了駅に車を停めて歩く。駐車場まで電車で引き返し、車で帰る。しかしながら、ここまで自宅から離れてしまうようと、流石に運転が辛くなってきた。既に片道100キロを越えた。もうこの戦略は使えない。さて、ここから先はどうしよう。

よし、発想を変えて逆走しよう。四日市から奈良を向いて歩いてみよう。四日市駅まで近鉄特急で行き、街道を使って戻ってくるのだ。東を向くか西を向くかの違いだもの。道程が繋がればよし。

特急に乗ると、親子連れがすぐ前の席にいた。若い母親が、あたり構わず車内を触る幼児にヒステリーを起こす。触っちゃちゃダメと言ったところで、子供が聞くもんですか。アルコールスプレーをもっているんだから、先に子供の触りそうな場所を拭いたらどうなんだろう。二度ほど背もたれを叩いて抗議したが、母親のヒステリーは増すばかり。父親は何も言わず。不愉快なので席を移動した。やれやれだ。

さて、街道をできるだけ通るのが目的の一つだったが、大抵は侘しく消え失せていた。加茂、紫香楽、甲賀、柘植。旧道の多くは人の通れない高速道路になっていた。旧それに比べて旧東海道のなんと歩きやすいことよ。さすが、現役の道だわ。大通りからは一本離れている場合もあるけれど、ちゃんと今も存在している。
道が消えたということは、言い換えれば捨て置かれた地域ということなのだろう。悲しいけれど。

四日市駅に降り立ったのが結構遅かったので、すぐにお昼時になった。泊町の「ひでの家」で焼き魚定食を注文した。お店の老婦人としばし談笑。畳の縁で作ったというカードケースをいただいた。あれこれ道を教えてくださったおかげで、無事に杖衝坂も越えられた。本当に杖をついていても転がりそうな急斜面で、知らずに行ったら焦ったところだった。

絶対に外せなかったのが「采女一里塚」を通過すること。采女町という名が残っているのは、采女を多く輩出する地域だったからのようだ。今やガソリンスタンドの一角に埋もれるように石の塚を残すのみだったが、私には嬉しかった。

猿沢では寵愛を失った悲劇の女官。この地では誇らしい職業婦人なのだ。 昼を過ぎて太陽が傾き始めた。西に向かって歩く私の顔を夕陽が射る。辛くなってきた。最寄駅はどこだ。もう一駅先までは歩けそうにない。足を引きずる様に歩いていると加佐登駅が右手に見えてきた。1時間に一本の電車が来るかもしれない。目の前でそれを逃したら、ここで1時間待たなければいけない。ストックを短く持ち、畑の間を走り、北側にしか出入り口がないことに焦りまくりながら構内に駆け込んだ。 今日はここまで。歩行距離 16、4キロ。
8B0D0E3E-B208-4DA6-A38B-D80FCFD82B26.jpeg
nice!(3)  コメント(0) 

関宿から亀山宿へ [采女]

2020年7月 停滞している梅雨前線が、日本中の各地に災害をもたらしている。先日歩いた柘植までの道も、柘植から関に抜ける山道も、おそらく大変なことになっているだろう。岐阜現代美術館で17日までの展示会があったのだけれど、付近で洪水があったという情報が入ってきた。采女旅の経由地にしたかったのだが、今回は諦めよう。篠田桃紅さんの作品は、別の機会に見ることにしよう。

何にせよ、山を抜ける道は当分通らないようにする。蜂、蛇、車の往来から逃げるだけで十分気を使う。この上崖でも崩れようものなら、存在すら消えてしまう。なので山は地図上でジャンプする。またかと言わないで。横着しているんじゃないのよ、臨機応変っていうのこれは。

そうして次は関宿から亀山、そして庄野、石薬師と続けて進む予定だ。なんだか東海道中になってきたかな。
宿と宿の間はおよそ16キロ。人の歩ける距離に合わせて設置されているのが、こうして歩いているとよくわかる。が、奈良時代には宿場町の賑わいなどなかっただろう。成人男性が税を60日かけて歩いて運んでくる道だ。そこを女の脚で歩くとしたら何日かかっただろう。舗装のされていない道。人の目、官吏の目。若い女というだけでも人目を引いたに違いない。しかも逃避行だ。

この日は、関宿駅前に車を停めて亀山まで電車移動することにした。先の駅まで電車で行って、元の場所に歩いて戻ってくる。関駅と亀山駅の間は5、7キロメートル。歩く距離は短いけれど、自宅からの距離はかなりになる。往復の運転が100キロメートルを越えると、流石に運転だけで疲れるのだ。そろそろ別の方法を考えないと。

関、亀山間を歩いたこの日は、あいにく途中から雨が降ってきた。梅雨なのによくやるわ私。でも、梅雨が明けたら今度はかんかん照りが待っている。それを思うと、今少しでも先を目指したい。シトシトと降り続く雨の中を一人歩き続ける。コロナのせいか、あっちもこっちも閉まっていて、宿場町だというのにお茶の一杯も飲めずに歩き続けた。まあ、このくらいの不自由は1,300年前にはあって然るべきか。

ただひたすら歩き続ける。猿沢池から80キロ地点まで来た。
全行程700キロ。目的地まであと少し。
nice!(3)  コメント(0) 

56キロ [采女]

体重公開ではなく、猿沢池の碑から柘植駅までの距離が56キロある。地図上で山をジャンプしたけれど、まあそこは置いといて。
F82D8E7A-83E9-49A0-BCD6-ADD76561B261.jpeg
柘植は、壬申の乱の舞台としても有名だ。(というのは、今回知った)
方向音痴で地理に疎かったけれど、こうして歩いてみるといろんな事がわかってくる。もしかしたら人は、歩く速さでないと物事を身をもって考えられないのではないか、とも思えてくる。

柘植駅までのトラックが非常に怖くて疲れたせいか、九州で大雨災害になるほどのお天気のせいか、はたまた惑星直列という天文上の大イベントのせいか、数日間は体が重くて動けなかった。

媛は700キロ先の安積(現在の福島県郡山市)まで歩けたのだろうか。56キロの10倍以上。ここまでの10倍以上。私みたいなやわな体ではなかったとしても、無事に行けるものなんだろうか。本当に?
仮説を立てて証明しようとしたのは私なのに、たった10分の1足らずを歩いただけで、疑問がどんどん膨らむのを止められなくなってきた。

nice!(3)  コメント(0) 

都〜都 その5 (信楽〜紫香楽宮) [采女]

歩き始めてからこの日は4日目になる。時は六月の半ば。お天気の怪しい日が増えはじめた。曇り空は歩くには好都合なのだけれど、湿度の高い空気の重さが体にまとわりついて、足が重くなる。

これまで歩いただけでも、旧街道の多くが自動車道に取って代わられ、歩くのはかなり難しいことがはっきりした。今も残っている旧道はあるが、それは広くても軽四が二台ゆっくりとすれ違える程度の道幅しかない。地元に残っている高齢者は、もう外を歩くことも稀なようだ。
まあ、なんとかなるだろう。何とかはなる。道があれば歩けばよし、なければないと分かれば良いのだから。なにせ調べているのは遥か昔1300年前のこと。無くて当然と思えばなんてことはない。

信楽駅に着いた。信楽高原鉄道で起こった悲惨な事故は記憶に新しい。正直なところ、最初のうち、場所と事故が記憶の中でリンクしなかった。こんなのどかな所であんな事が起こり得るのだろうか、全く違う場所の話じゃないのか。
駐車場に車を入れる。そろそろ車で往復できる限界距離になってきた感がある。というのは、長距離を歩いた後、運転して帰るだけのエネルギーを残しておく必要があるから。決して無理はできない。帰り道で自分自身の電池が切れるのが怖い。

さあ、今日も歩こう。大きな紫香楽焼きの狸が聳え立つ信楽駅前から、本日は紫香楽宮跡を目指す。本日の予定距離は約6キロと短い。歩き始めた道はまさに旧街道だった。紫香楽宮に向かう帝の行列がここを通っていたという案内板があった。紫香楽宮は甲賀寺のあった場所で、帝は頻繁にこの地を訪れていたと聞く。勅使という名の駅があることからも、このあたりが帝にとって大事な地域だったと想像できる。が、よほどの思い入れがあったのか、最初はここに大仏建立を考えたらしい。しかし山火事が相次いでおこり、奈良に還都して金鐘寺(その後東大寺)に大仏を建てることにしたという。火事はおそらく敵勢力による放火だと言われている。さあ、誰かな〜。ドラマみたいにわかりやすい妨害をするものだ。

今日の予定距離は6キロ弱になる。体力は温存できそうだし、ゆっくり甲賀寺跡を見学できるかなと思ったのも束の間、シトシトと雨が降り始めた。梅雨入りしたみたいだ。集落内の安全な小道でレインポンチョを被り、トラックの通る大通り脇を歩き続ける。安全のためにはもっと派手な色にした方が良かった。俯き加減で進んでいくと右斜め前方に駅の吊り標識が見えた。と同時に、前方から赤い高原鉄道電車が向かってくる。これを逃すと、雨の無人駅で一人1時間過ごさねばならないのか?紫香楽宮は?甲賀寺は?もういい!
帝が足繁く通いながらも、意に反して捨てた都、紫香楽宮。私は行く前に捨ててしまった笑

天皇付きの采女なら、おそらく何度か来たことだろう。道はわかっていただろう。平城宮から恭仁京まで14キロ。恭仁京から紫香楽宮は34キロ。私でも歩いてこれる距離だから、采女一人でここまでは来れただろう。滑り込んできた電車に飛び乗り、信楽駅まであっという間に戻る。本日の歩行5、6キロ。
nice!(3)  コメント(0) 

都〜都 その4 [采女]

平城京から恭仁京、紫香楽宮。それぞれ20キロ程度だ。遷都とはこういうものなのだろうか。ほとんど別荘から別荘へ、気分転換に移っているように思えなくもない。普通に離宮のままでいいのでは?私が従者なら、「えぇ〜っ、また移るの〜?こないだ来たばっかなのに〜?」と言って50叩きになっていたことだろう。

さて、先に進むにつれて、逃げた采女の足取りを探す歩きが、旧道の研究にもなってきた。教科書で習った五畿七道という単語が、歩いてみて初めて血肉で包まれて見えた。

高速道路建設前の調査をすると、古代の道路跡が発掘されることが多いという。さもありなん。当時の物流を担っていたのは人力で、現代は車なのだから。最も効率の良いルートを利用していたんだろう。現代と変わらない。いや、当時の道路に関する知恵や知識は、現代よりも優れているのかも知れない。

さて、先日の続きを歩くなら、調査団と別れたバス停からスタートするべきなんだろう。
でも、、、
自宅からJR加茂駅へ。駅から1時間に1、2本のバスに乗って前回の終点まで行くのに半時間。なので本来の出発までに軽く2時間はかかる。
季節は六月。休日とお天気と体調と。相談するお相手は沢山ある。前回は蛇にも遭遇したことだし、山の中は少々怖い。なので、梅雨の山越えは飛ばして、信楽駅から紫香楽宮を目指すことにした。

nice!(3)  コメント(0) 

都〜都 その3 [采女]

バスの時刻表はざっくりと確かめた。時間帯によるものの、1時間に一本は走っている。大事なのは最終が何時何分かだ。それを逃したら、ちょっと笑えないことになる。1時間に歩ける距離をおおまかに見積もった。水は多めに持ったが、1、5リットルは重かった。コンビニはおろか自販機すら見当たらないので、念のためにと買ったペットボトル一本が足取りを重くした。

さて、恭仁京から紫香楽宮へのルートとしては、次のような経路を考えた。
口畑〜奥畑〜白栖〜前中〜原山〜湯船〜朝倉〜中野〜長野〜勅使〜宇田出〜久保出〜中牧〜黄瀬〜宮町

加茂駅から5号線経由で進む。
川を渡る。時折り車で訪れる農家カフェ「カントリーロード」はここだったのかと、歩いてみて初めて分かる地理におどろく。和束茶カフェで少し休憩する。コロナで喫茶店は閉店中。抹茶プリンを屋外で食べていると、外国語が聞こえてきた。若い女の子が三人ほど。この時期に外国人がいるなんて珍しいなと思いながら、再び歩き出す。何せバスが少ないのだ。ペースを乱すと面倒なことになりかねない。

和束茶カフェのすぐそば、茶畑になっている小山の上に安積親王の和束墓があった。案内板は生い茂った雑草の中にあった。
他所様の耕作地に足を踏み入れるのは気が引けたのと、バスの時間も気になっていた。まだ先がある。ここで疲れると後に響く。今回は見送ろう。

この墓に眠っている安積親王については、帰ってから調べてみた。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E7%A9%8D%E8%A6%AA%E7%8E%8B
若くして脚気で亡くなったとされる親王が、橘諸兄の領地で埋葬されている。聖武天皇はこの王子に余り思い入れがなかったのだろうか。

ともあれ、このあたりは都を往復するのに使われた道のようだ。はっきり言って狭いし急だ。小山を上って降りて。ここを帝の輿を担いで昇り降りしたというのだろうか。大変な苦労だったろう。この小山にも集落はあって、ご老人の姿はちらりと見えた。この人の先祖の先祖の先祖からこの地に住んでいるのだろうか。曽祖父、いやもっともっと前のおじいさんは、天皇の行幸を目にしたのだろうか。

茶畑を上り、また下る。思ったより時間がかかる。ひたすら歩く。歩くだけでいいんだろうか。あと2、3のバス停分を歩けば今日の目的地だ。あと少しもう少し。早足でバスの時間を気にしながら先へ先へと足をすすめる。これでいいんだろうか。いや、只々急げばいい。私は今、采女が逃げた道筋を探っているんだから。でも。。。。
なんだか訳がわからなくなって来た時、それまで誰一人会わなかった道で人の、しかも集団を見かけた。
小学生らしき男子が二人、黒づくめの男性が二人、そしてご老人。なんだかワクワクした空気感があったので、声をかけてみた。
どうやら調査をしている方々のようだ。畑に雉の親子がいて、脚輪をつけようとしているらしい。

ここからあと暫く、急ぎ足でバス停に行っても面白くない。どのみちバスは折り返して来て、この前を通る。それならここでしばし珍しい捕物を見ていよう。おじいさんとなんやかや話しながら、雉が網にかかるのを見ていた。
ここは山の間の細い道筋で、他に道らしい道はない。おそらくここを都人が通ったのだろう。雉を捕る人の姿は、当時もあったかも知れない。当時は獲物として。

暫くするとバスが通り過ぎていった。私が乗ろうとしていたバス停から間も無く引き返して来るはずだ。おじいさんに、「あのバスに乗りますね、最寄りのバス停まで戻って待ちます。それじゃ。」と言うと、おじいさんは「行かんでええ。ここのバスは停留所以外でも停まる。わしが止めたる。」と言って、本当に止めてくれた。この人はもしかしたら、この辺りを仕切る豪族の長かもしれない。
その場にいた方みんなにお礼を述べて、私はバスに乗り込んだ。
本日の歩行距離14キロ。追手も怖いが雉も蛇も怖い。





nice!(3)  コメント(0) 

辻褄が合わない [采女]

福島県郡山市と奈良県奈良市が姉妹都市となったのは、両市に采女の物語があったから。
                     
奈良にあるのは、帝の寵愛が失せたことを嘆き、猿沢に身投げした采女のお話。
猿沢池は深度1メートルの人工池で、入水などできるはずがない。常々そう思っていた。お風呂でも溺れる場合はある?それはまた別。

姉妹都市にあるのは、中秋の名月に入水したと見せかけて、愛しい人の待つであろう故郷へ逃げ帰った安積媛の物語。
入水したと見せかけて逃げた采女の物語があるのなら、きっとその女性よ。猿沢の采女は安積媛に違いない!

そう仮説を立て、実証実験として歩き始めておよそひと月が経過した。もちろん同時に道のこと、采女こと、歴史のことと、いろんな方面の書物をよみ漁った。
そうして記録の類を突き合わせていくうちに、いろいろと不具合が出てきた。

時代が合わないのだ。

物語によると、安積媛は地方巡視をしていた葛城王によって都に来たという。税金が飢饉で納められない、しかしどうしても待ってもらえない。そんな折、機転のきく娘をいわば税の代わりに都に連れてきたのだ。
ところが、

722年 養老6年閏4月 陸奥の采女が廃された(続日本紀)。陸奥には福島県も含まれている。
749年 猿沢池ができる この池は人工池のため、成立年がわかる。
750年 葛城王 橘に改姓 52歳 これ以降、橘宿禰となる。橘諸兄である。

721年には、その前年度発生の隼人蝦夷反乱の兵役の負荷軽減対策として、陸奥と筑紫公民は一年間の庸調を免除された。税金を延滞する代わりに連れてこられたのが安積媛だとすると、721年以前となる。采女となる女性は年齢13以上30以下。721年当時最年少の13歳だったとしても、猿沢池のできた年には40歳を越えている。当時なら相当のおばあさんである。采女に任期がなかったとしても、採用年齢は過ぎて久しい。堂々と帰郷できた年齢だろうと思われる。今更逃避行をする意味など、私には考えられない。

これは、再検討の余地がある。

nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。