都〜都 その2 [采女]

加茂駅の近くには観光案内所があった。次回はここから笠置を経由して木津川沿いを歩こうか、と思ったので、地元の方から前もって情報を集めようと思い、立ち寄った。
ところが、案内所の男性は「とんでもない」と即答した。163号線は交通量が多過ぎて歩いて行くのは危険過ぎる、バスに乗った方がいいと。私はその昔からあった道を歩きたい。女一人、徒歩でどこまで行けるか試したいのよ。
パンフレットを何枚か頂いて、あらためて次の道を探ってみた。どこから行こうか。はやくも道が閉ざされるとは。目的地ははるか彼方なのに。

恭仁京の少し北に紫香楽宮跡がある。聖武天皇が遷都を繰り返していた頃、帝はこの紫香楽宮にも足繁く通っていた。当然、沢山の従者や采女達も連れていただろう。ということは、媛も来たことがあるかもしれない。道を知っていたかもしれない。
それならこちらにしよう。と、次の目的地は紫香楽に設定した。ただ、加茂駅から紫香楽宮までは35キロメートル以上ある。一日で踏破できない。仕方ない、2回に分けて進むことにして、途中からバスで加茂駅に戻ろう。山の中で北東に分岐する所にバス停がある。このくらいまでなら行けそうだ。

何日か経ったある日、今度はJR加茂駅を起点に歩き始めた。

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都〜都 その1 [采女]

葛城王というのは、橘諸兄の初名だ。母は橘三千代。藤原不比等の後妻となったあの人だ。
この辺りだけで、歴史的好きには既に鳥肌ものなのだけれど、それは置いといて。
橘諸兄は天平8年(736年)に母の姓である橘を名乗ることを認められた。安積媛が都に連れて来られ他のは葛城王と名乗っていた頃なので、736年以前の出来事ということになる。その頃はまだ、恭仁京や紫香楽宮はなかった。しかし、恭仁京のある京都府木津川市加茂地区は、諸兄の本拠地場所だ。ということは、ある程度道路が整備されていただろう。安積媛は遠い北の国、現在の福島県郡山市から来た。不自由な身の上で、都の外を知る機会などほぼ無かっただろう。およそ分かる道などそう無い筈だ。逃避行が月の下で始まったとしても、人の通らないような道なき道を逃げて行ったとは思えない。月明かりだけの夜道に足を進められるのは、知った方向知った道だけ。少なくともワタシなら。

猿沢池のほとりから歩き始め、北へ北へ。手貝町、今在家町、坂を上がって旧奈良監獄を通過したら奈良街道へ入る。ここから先は新興住宅が街区を形成していて、整った街が広がっている。道は広いが人はほとんど歩いていない。この辺りの人の移動はほぼ車によるのだ。
獣が出るわけでなし、滅多なことはなかろうと思いつつ、横断歩道もないだだっ広い道路脇をひとり歩き続けるのはうっすらと怖かった。ましてや夜中に女一人で行けるのだろうか。

恭仁京を目指すも、帰路を考えると手前のJR加茂駅から奈良に戻った方が良さそうだ。最初から飛ばすと続かない。そんな理由で、初日の目的地を加茂駅にした。
JR加茂駅からJR奈良駅へ。真っ直ぐ伸びた三条通の東1キロ先に、今回の旅の起点である猿沢池がある。ぐるっと回ってきたわけだ。次の逃避行は加茂駅を起点にする。 本日の距離 12キロ

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仮説 安積媛 [采女]

地方視察で訪れた葛城王が機嫌を損ねた折、うまく取りなしたのが安積の媛だった。不作で税が納められないが、葛城王は減税に応じない。税を待ってもらう代わりに媛は采女として宮中で労働することになったようだ。彼女の奉公は税の免除になるものではなく延滞の代わりか。酷いものだ。

さて、采女とは何ぞや。
朝廷において帝や皇后に仕える女性のこと。
https://kotobank.jp/word/%E9%87%87%E5%A5%B3-35019
采女として採用されるのは、現代でいうところの小学校高学年から大学生あたりの年齢で、しかも中央に近い族の娘や地方豪族の娘だ。見目麗しく地位もある。そういう子女に周りの世話をさせることで、王族と地方豪族の主従関係を示す目的もあったのだろう。そして、場合によっては帝の女となる。それは名誉なのか?、、、ま、そういうことはこれから。

安積から連れて来られたとしたら、どの道を取ったのだろう。故郷に逃げ帰ったというのなら、媛はどんなルートを取ったのだろう。現代の奈良に暮らす私から見ても、遠い遠い北の国から再び北の国へ。

日を改めて、私は猿沢のほとりに立った。
ここから歩いてみる。彼女が辿った道を、逃避行の足跡を探すのだ!
満月の夜に、入水したかと見せかけて逃げたという安積媛の伝説だ。状況設定から忠実に再現してみよう。と思ったけれど、そんな根性は私にはないのであった。なので、いいお天気の午前中に出発した。
目指すはJR加茂駅。
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調査開始 [采女]

役所に行ってみた。唐突だが。

わざわざ奈良に都があった時代と書かれてあるのだから、どこかにキチンとした元データがあるのだろうと思ったのだ。データがあるなら役所、そして観光課に行けば何かあるかも知れない。まさか市民課にはなかろう。

「恐れ入ります、こちらに猿沢池の采女に関する資料はありませんか?」お昼休みにもかかわらず、観光課の方はいろんな資料を出してくださった。感謝。

が、そこには知りたい情報はなかった。(すみません)
持ち帰ってパラパラと眺めていたら、奈良の姉妹都市についてのパンフレットが目に留まった。

福島県郡山市。入水した采女の話が伝わっているという。
地方豪族の娘「安積媛」は、税の代わりに采女として奈良の都に来ることになった。が、故郷に残した恋人を忘れられなかった。ある満月の夜、媛は入水したと見せかけて脱走し国に帰った。しかし恋人は既に亡く、絶望した采女もまた、山の井にその身を投げたというもの。

これよこれ。
猿沢池で身投げしたふりをして、国に逃げ帰ったんだわきっと。
安積媛。彼女が猿沢の采女に違いない。
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きっかけ2 [采女]

高速よもぎ餅の誘惑に負けないよう、道の反対側を進む。自然と足は興福寺方面に向かうことになる。

左側には高札があった。あったんだこんなところに。知らなかった。目に入っていなかった。もちろん読んだこともなかった。よくこれで奈良生まれ奈良育ち、生粋の大仏娘とか言えたものだ(いや、言ってません)。そんな反省ともつかない思いを胸に、坂道を上って行った。

そう、この辺りは、春日山や若草山の裾野なので、緩やかに坂が続くのであります。
まっすぐ行くのも芸がない。五重塔も中金堂も坂の上。しんどいので、足が勝手に右手の猿沢池に向かっていった。

猿沢の池の北西の角辺りには、ひっそりと采女神社がある。
その昔、帝の寵愛が失せたのを嘆いた采女(女官)が、この池に身を投げたそうな。それを知った帝は嘆き、祀ることとした。そして建てられたのが采女神社という。だが入水した池を見るに忍びなく、采女は社の向きを一夜で反対にしたという。

そんな訳ないわぁ きっと大工さんが間違えたのよ。(違うって) そもそも猿沢池は、興福寺の境内にある人工池だ。どこまで行っても水深1メートル。身動き取れない状態で落ちたのならともかく、自らどうやって命を絶つことができるだろう。おかしくないそれ? 頭の中で悪態をつきながら、池のほとりに置かれた、件の物語を記した石板を見た。 。。。あまたの美女がはべるなか、愛された采女って誰なんだろう。戯れにお手付きになったとしても、それは出世の大きな一歩なのだ。飽きられたからといって、嘆いて身投げするような悲劇ではない。(それも水深1メートルで) さらに、興味の失せた采女がひとり自ら姿を消したところで、帝がいつまでも気にかけるものだろうか。気にかけているなら寵愛を失ったりしていないわよね。 奈良に都があった頃の出来事なら、どうして采女神社が鎌倉時代の創建なのだろう。東大寺大仏殿の仁王は確かに鎌倉時代の制作物ではあるけれど、このこじんまりした後ろ向きの神社までどうして?おまけ? おかしい、おかしい。おかしけりゃ笑え。いや笑えない。 ひとりボケとツッコミをしながらも、私の中に積み重なっていく疑問のあれこれが燻り始めた。
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きっかけ [采女]

日本中、いや世界中にコロナが吹き荒れ始めた令和元年。間もなく、海外どころか県をまたぐ移動すら自粛を求められるようになった。
これまで、ふらり一人旅を楽しんできた身には、この移動制限には辛いものがあった。かと言って、出かけたい気持ちも抑えきれない。さてどうしよう。

おや、私は世界遺産の町に住んでいたんだったっけ。住み慣れた古都の駅周辺を、改めて散歩してみようか。意識を変えればきっと違った気分で歩けるわ。何より、県を跨いでないもんね。
と、誰にともなく言い訳しながら、観光客の消えた街歩きに出かけた。

近鉄奈良駅から東向商店街のアーケードへ。この間はほんの数メートルなのに、長らく屋根がなかった。雨の日は駅地下から出て傘を取り出し、アーケードに駆け込みまた傘をたたむ。この手間の面倒だったことよ。行基菩薩噴水の上にできた透明の大屋根は、変わらない奈良の近代化の象徴だった。大袈裟か。

東向商店街は、東向と言うが南北に伸びている。生まれた時からずっと「ひがしむき」と呼んでいたので、これまで何の疑問も持っていなかった。門前町の名残りだとか何とか聞いた気がするけれど、忘れてしまったな。
商店街は南に向かって緩い下りになっている。溢れる外国人観光客で歩けなかったのが嘘のように、人とぶつかることもなく下っていけた。観光客相手だったドラッグストアは、速攻で店を閉じたっけ。お商売は稼ぎ時より逃げ時がより大事なのかも。

商店街を突き当たると、左斜めには高速餅つきで有名な中谷堂がある。いつも観光客が道まで溢れていたが、さすがにこの時は手持ち無沙汰な様子だった。なにせ日本人観光客すらいないのだから。
突き立てトロトロのよもぎ餅は諦めて、もう少し足を伸ばすことにした。(続く)


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