藤原良世 [采女]

采女神社は藤原良世公卿(823〜900)の建立と記録されている。良世は初代藤氏長者を務めたとされ、興福寺縁起の選者でもあるそうだ。姉は太皇太后・藤原明子であり、良世は長年、皇太后宮大夫・太皇太后宮大夫として仕えた。これ以上はない高位に長年在したといえる。その良世が、この小さな神社を建立したとはどういうことだろう。光仁天皇、文徳天皇、清和天皇、陽成天皇、光孝天皇、宇多天皇そして醍醐天皇と、長年に渡り平安朝代々の天皇に仕えてきた大臣が、どうして氏寺に采女を祀る神社を建てる必要があったのだろう。
藤原氏の寺である興福寺の境内で、帝の寵愛を無くした為にその身を投げた采女。京都に都が移ったのちの出来事なら、寵愛を失ったからといってわざわざ奈良の寺で入水するだろうか。そしてその名もなき采女を、しかも七代以上帝位が変わった後に、藤原長者が社を設けて祀ったのはなぜだ。

、、いや、采女に名はあったのだ。名乗れない事情があったのだ。当時は祟りを非常に恐れた時代である。そんな時代にあったからこそ、祟らないように、しかし名は伏せて祀る必要があったのではなかろうか。
左大臣という最高位につき藤長者でもあり、姉は太皇太后でその大夫という揺るぎなき権力と財力があった良世。そこまでの地位と権力を持ってして、やっと薬子を祀れたのではないか。しかし、それでもその名は永遠に伏せたままに。どこからどんな些細な疑いもかけられてはいけないのだ。天武帝天智帝両方の血を受け継ぎ、国政の中枢にいたあのサラブレッド長屋王でさえ、謀反の疑いをかけられて追い落とされたのだから。



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