2019-05-25 [独り言]

仏の教えを伝えるのが本来的なお寺の仕事である。でもそれでは人が集まらない。教えを広めたい、伝えたい。でも人は来ない。ジレンマである。
それまではお寺という場所は、葬儀を敬遠していたらしい。死とは忌み嫌うものだったから。ところが、ある宗派が葬儀を執り行うようになった。すると民がその寺に集まり始めた。なんと他の寺も真似をした。まあ、ずいぶんなこと。お寺が葬儀を始めたのは、どうやらその辺りからなのだと。今みたいに、家制度が消滅し人が流動する、うんと前のお話。
なお、お寺には檀家制度とか過去帳とかいうものがある。今でいう市役所の住民票と戸籍謄本の係もしていたわけである。精進料理だって、お寺が現代のホテルとして利用されていたから生まれたもので、でもこのお話は別の機会に。

価値観は時代とともに変わる。
今や「私のお墓の前で泣かないでください」だ。ここに居ないんだって。
死んでから付けてもらうお高い名前にしても、呼ばれて返事する人はいない。あの世でその名で点呼される訳でもなかろう。「名札(戒名)は?」「知りません」「忘れました〜」って言っとこう。取りに帰るようには言われないだろう。
関西には一心寺さんという骨仏のお寺がある。宗派のほとんどを区別なく受け入れておられるという。同じ蓮のうてなに再び集うのだから、それでいい。
こういう看板を見ると、霊園すらもう必要とされていないのかも知れない。
F48CEB26-C6EB-4145-9564-07749524B661.jpeg
nice!(2)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。