放射線治療 初旬 [癌と経過]

 毎日ほぼ定刻に受付を済ませる。放射線科のドクターのお顔を拝んでから照射室に向かう。
「どうですか?」
「はい、別に何とも。」
「最初のうちはそんな感じですね。では頑張ってください。」
これから何がどうなるというのだろう。考えても仕方がない。小さな手書きのカレンダーは二枚。開始日と終了予定日が書かれている。治療のない土日には赤いバッテン。この用紙の最終予定日まで、私は只々通うのみなのだ。

 診察室から出て受付を通り、角を曲がって廊下の突き当り。検査技師さんのおられる所に声をかけ、テレビの前で順番を待つ。面白くない民放が流れていたのでチャンネルを変えたら、いきなり砂嵐になって慌てる。どうやら他のチャンネル設定がないようだ。
 名前を呼ばれて入った治療室には、いつもジャズが流れていた。希望すればほかの曲にもしてくださるそうで、落語でもOKと仰っていたけれど、笑ったりしても大丈夫なんだろうか。一本まるまる聴けるならともかく、オチが聞けないとフラストレーションがたまりそうだな。
治療台に乗り、腕を固定させる。光線が身体に引かれたマジックのラインと重なる。細かく調整されて体の位置が決まると、技師の方々が退出される。間もなく

ビーーー・・・

という音が聞こえる。照射音なのだろうか、照射を知らせる音なのだろうか。嫌な音だった。ちなみに、五週間の間、この音にはいちども慣れることがなかった。叫びだしたくなるのを抑えるためにはどうしたらいいか。いろいろ考えて、照射時間をBGMの拍数と小節数で割り出そうとしてみたり、心臓は何回打つだろうかと数えてみたり・・・という虚しい行為に及んだりもした。だからといって時間も回数も減るわけではない。胸式呼吸だと照射位置がずれはしないかと、腹式呼吸にしてみたりもした。

 照射一回当たり十数分のために、毎日一時間かけて病院に行き、一時間かけて帰る。最初のうちは治療の影響はなく、照射後は暇だった。病院を出ると、そのままドライブしてはランチだの買い物だのをしていたのだが・・・
じわじわと変化は現れた。
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続いて放射線治療 [癌と経過]

 退院したのもつかの間、数日後には外来に再上陸。オペ室での姿とは打って変わって、やはり先生は軽やかで明るかった。手術痕は綺麗にくっついていて翌週には抜糸ができるそうだ。そして次週からは、放射線科での治療が始まるという。なのでここで乳腺外科の先生とはしばしお別れ。しかしながら大病院はいろいろな科と設備があって助かる。

 治療の合間を縫って、学生時代の友人達と食事をすることになった。無事生還を喜んでくれる旧友の存在はありがたかった。
でも、
「私は胸が小さいから乳癌とは無縁かと思ってるんだけど。そうとは言えないのかしら。」
とか、
「健康診断を受けたら、結果待ちの間が不安で不安で・・だから受けるのは怖いわ・・」
とか言う人もいて、己の医療に対する考え方とのギャップに驚いた。私が検診を受けるのは、何もなければそれでよし、万が一何か見つかれば早期対応ができるから。無用な不安、遅きに失してことを大きくしないためだ。時間は巻き戻しできない。

 検査に対する意識の違いを知ると同時に、個人事業主や会社員の妻でない人は、健康診断自体受ける機会が少ないことも目から鱗だった。公的機関からの受診票は、受けなかったからと言って連絡が来ることもなく、忙しさにかまけているうちにいつの間にか期限が過ぎていたりする。「受けなきゃとは思っているんだけどね。」が、いつの間にか病状が進行している理由の一つなのだろうか。

 ともかく、楽しい夜だった。友人達と久しぶりに集い、お酒も少しいただいて元気を取り戻した。あとは時間が薬か。でも、明日予定していたイベントはキャンセルしよう。病気発覚前に申し込みも支払いも済ませていたイベントだけど、敢えてやめておこう。疲れをためないように。体がSOSを発する前に。

 
 翌週からいよいよ未知の放射線治療が開始された。先ずはこの治療についての説明があり、続いてCT検査となる。照射位置のマーキングをするための3D画像が撮られるようだ。
 放射線技師さんが二人以上ついて、看護師さんも最初はその場におられた。技師さんたちが男性だから、女性の看護師さんがいてくださるのだろうか?まぁ、半裸体で、自分で動くことは禁止され、時に持ち上げられたり捻られたりしながら、技師さんの顔が生身のすぐそばにあるのは正直緊張した。

 初回照射日はそんなこんなで数十分身動きが出来なかった。同部位に連続して照射するため、患部とその周りには入念に印がつけられていた。消えない様にずれない様に、バッテンの所にはシールが貼られる。動いてはいけないと言われると余計にムズムズするもので、唯一動かしても何も言われない足首を動かして、気を紛らわせていたww。
 五週間の治療期間の途中で減量したら、ボディのサイズが変わるだろうな、そうしたら照射部位も変わるのかな。その時は再度測定し直すのかしら(結局そういう嬉しい事態は起こらなかったが)。俎板の上の鯉というよりは、横断歩道の舗装をされているアスファルトってこんな気分だろうな。もしアスファルトに意識があるとしたらだけど。
取り留めもなく浮かんでくる考えに、何があってもおちゃらけている楽天的な自分を顧みる。ちょっとは客観的に周りを観察してみるか。身体に線を引く色は、青だの黒だの、これって何か決め事があるのかな。マーキング用の特殊インクなのかな。と技師さんの胸ポケット一杯に差してあるペンを見ると

マッキー・・・普通のマジックなんですね・・。

照射部位の計算に一日猶予が必要というので、実際には翌々日から照射開始。
 
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手術2 [癌と経過]

 手術終了は、予定時間を少し超えたらしい。 ぼんやりと意識が戻りつつあるなかベッドに移されたのを覚えている。意識がクリアになると同時に私は右手を左の脇の下に伸ばした。

「・・あった。」

「手術中にリンパ節転移が見つかれば切除します」と聞いていた脇には、手術前と同じくらいの皮膚の感覚があった。
転移はなかったのだ。

 部屋に戻ってからは、30分後 1時間後 2時間後・・・と、することが決まっていた。
足首を動かす
体を少し起こす
ベッドから足をおろす、それによって血圧の変化がないかが一つのヤマ。
次はトイレまで歩く

 少しでも早く原状に戻すことが回復にとって良いというのが今の医療の常識だ。ここまで順調。一晩スムーズに超えられることが次のステージ。同室の方達は手術当夜は激しい嘔吐に見舞われて、一晩中何度も看護師さんのお世話になっておられたが、わたしはそれもなく静かに夜を過ごした。とはいえ、翌日食後のトレイを配膳室に運ぶという簡単なことが、まだまだ厳しかったのも事実だった。
 お見舞いは全てお断りしていたので、来るのは家族と妹だけ。心配性の母が姿を見せないのを訝しく思ったが、何かあったとしても私には現状なにも出来ないし、それ以上考えるのは止めにした。(案の定であったがここに書くのはやめておこう。)

トレイを返しに行く足取りは、回を重ねる毎しっかりしたものとなり、院内のカフェに珈琲を飲みに行けるようになった。リハビリも順調だった。センチネルリンパ節生検のためにリンパ節の切開はしてあるので、多少の不自由はあったが。

 そんなふうにしているうちに退院の許可がおりて、六日後退院。入院時ぴっちりしていたジーンズの腿は緩々になっていた。



 
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手術1 [癌と経過]

 20年余り前、父が亡くなった。父は病発覚後緊急手術をし、一旦退院できたものの間もなく再入院し、そのまま帰らぬ人となった。病気について本人は何処までわかっていたのだろうか。母のたっての希望ではあったのだが、もし本人に病名を告げていたら・・・。退院した間にしたい事があったかもしれない。行きたいところがあったかも。会いたい人がいたかも。言っておきたいことがあったかも・・・。「どこに行きたい?」「誰に会いたい?」「何が欲しい?」今後起こるであろうことをわかっていながら何も聞けない。その苦しみは、当人に病名を隠しているからに他ならなかった。

 今や、ネットにアクセスして、症状や治療法、薬剤の名を入力すれば大抵のことはわかる。病名を本人に隠して治療を続けることは、いまの時代不可能だ。隠し通せるものではない。勿論病状にもよるし、自分の病気について知りたくない人がいることも事実だ。ただ、当人が病名を知ることで、医師と本人そして家族の間には壁がなくなる。労わり、慰め、共に泣く。病室では笑顔、廊下で涙という辛い二つの顔を家族に強いることはないのだ。命を前に隠し事をする事は余りにも辛い。自身に何かあれば、本人に告知してほしいという気持ちが確定したのはその時だっただろう。


 翌朝、はやくに夫と長男、妹が来てくれた。何を話したか何をしていたか、よく覚えてはいない。只々不安を押し殺し、無事を祈ってくれている気持ちは伝わってきた。繁忙期にもかかわらず「休んで病院に行くように」と言ってくださった息子の上司にも感謝申し上げたい。

 看護師さんに導かれ、手術室まで歩いて向かう。後ろに家族が連なる。年輩の看護師さんがある医療ドラマの話をされていて、私は相槌を打つものの実はそのドラマを見たことはなかった。大きな自動扉の前で立ち止まり、「家族の方はここまでです。手術が終われば先生が説明に来られますので、待合室でお待ちください。」と言われる。一瞬走る緊張。振り返って「ついでに余分な脂肪もゴッソリ取ってもらい。」と悪態をつきながら手を出す息子と握手する。

 再び看護師さんと二人歩き出した背中で、ドアは静かに閉まった。その先の2枚目の扉だったろうか、「ここが手術室です。」と言われて一歩踏み入れたそこには意外な光景が広がっていた。白い個室と思っていた手術室は広い銀色の空間で、幾つものベッドや機械やオペ道具が点在していた。銀色の空間の頭上に色を見つけ、見上げると、そこには何十インチになるのだろうか、大きい液晶画面があった。導かれたベッドの上には私の名前と、横に伸びる棒グラフが表示されていた。グラフの上の小さな数字は手術予定時間だった。患者ごとの執刀部位、オペ時間などがまるで飛行機の発着スケジュールのように映し出されているのだった。

 手術着を着用した担当医と執刀医の部長先生は、壁際に置かれた椅子に腰かけ、準備が整うのを待たれていた。白衣の時とは別人のようだった。担当医は緊張した面持ちで、部長先生は静謐ながら真剣に、共に深く呼吸をしながら精神統一なさっていた。命を預かっているという責任をその表情に見て、心底感謝の念が沸いた。
 指示されるままベッドにのぼり、二人の看護師さんによって手術の準備が始まる。点滴用の血管が確保される。
「麻酔が入るとき、少しだけしみる感じがしますが大丈夫ですよ。」
「はい。」
「では麻酔が入ります。」
 点滴針のすぐ下の血管に、擦りむいた膝に消毒液を塗ったかのような痛みを感じた。と、ほぼ同時に意識はなくなった。
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旅から戻って [癌と経過]

 道案内の息子のスケジュールに合わせ、予定より一日短縮した旅だった。帰国便を待つ空港で、両替を入れた財布が綺麗に空になった。硬貨一枚すら残さなかった。
 帰国すぐ、お土産を持って母と妹に会いに行った。入院日が迫り、さすがにもう話さないわけにはいかなくなっていた。いいニュースのあとに悪いニュースを告げ、空気が変わったのをそのままに、そそくさと現地を後にした(笑)

 帰国後一旦空にした同じスーツケースに、今度は入院用品を詰めた。そう、これはすぐに帰る旅。私は元気になってもう一度ここに帰るのだ。

 指示された日の午後一番に入院手続きをした。建てられて間もない入院病棟は、テレビドラマに見るような清潔さだった。病棟を仕切るドアを通り、ナースセンターで名前を告げると、バーコードのついたアイデンティティバンドが手首に付けられた。「退院時まで外さないでください」というものらしい。とうとう人にもバーコードがつくようになったのねと思いながら病室へ向かう。

 はるか昔に入院したころ用意した「洗面具」「貸しテレビの契約」「付添い用簡易ベッド」などは過去の遺物だった。完全看護で原則付添いはなし。ベッド周りはすっきりとコンパクトにシステム化されて、小さな金庫まで付いていた。なによりの違いは、ベッドを囲むカーテンが常に引かれた状態だったことだ。短期間の入院とはいえ、お喋りのできる人がいる方がよかろうと思ったので大部屋を希望したのに、これは大きな誤算だった。「プライバシーがあってないのが入院患者」という常識は過去のものだった。(入院中、誰ひとり、カーテンが全開されることはついぞなかった。)

 ベッドが決まり、荷解きが済むころには、看護師さん、麻酔医、担当医、担当医と共に執刀にあたってくださる部長先生が、入れ代わり立ち代わり来られた。医師や看護師さんと患者とのコミュニケーションは、患者同士のそれとは違って多かった。「〇〇さ~~ん!」とカーテンの間からにこやかに顔を見せる女医さんは、告知をした時とは別人のようで、軽症の友人がたまたま勤務先に入院したかのように振舞ってくださっていた。

 その日、その他に特別何かをしていたのだろうか。決して楽しいわけではないので、同行した家族と何を話したか、よく覚えていない。いつの間にかひとりになっていた。早めの軽い夕食をとり、あとはベッドでひとり静かに夜を待つ。手術に不安はない。余計なことは考えず、起こったことと考えたこと感じたことは、今後何か役に立つかもしれないので書き留めるようにしよう。そう、それだけでいい。

 そして明日は手術。
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二人旅 [癌と経過]

結論から言うと、旅は楽しかった。

海外から戻ったばかりの息子は「パスポートがスタンプラリーのようだ」と言いながら、一昨日降り立ったばかりの関西国際空港を泳ぐように歩いていく。ジャイロ機能が壊れていると言われている私ひとり、久しぶりの海外旅行とくれば、きっと飛行機に乗り遅れていただろう。関西国際空港は広い。

初の台湾では、お約束のように故宮博物院に行き、夜市に行き、初回の観光客は行かなさそうなお店で揚げパンと熱い豆乳を口にした。息子の友人と合流し、地元で有名な飲茶のお店に行き、淡水という海辺の地を案内してもらった。

ホテルに戻ると、思いがけなくヨーロッパの娘が連絡をよこし、台湾でスカイプ通話することになった。心配と強がりとが複雑に入り混じった娘の顔は、海外暮らしで少し大人になったようだった。国際電話が高額で慌ただしく必要最小限だけ話した事や、手紙が届くのに少なくとも一週間はかかるために話題が噛み合わなかったのは遠い昔のようだ。
息子は私の体調を気遣いつつ、異国での安全に気を配りつつよくやってくれた。一人旅の次は母を守る旅。甘えん坊はうんと大人になっていた。

気がかりの種は探せばどこにでも落ちている。だからといって拾わなくていい。
いつまでも子。でも子供じゃない。負うた子に教えられ導かれ。
時代はどんどん変わっていく。

親の役割は終わったのだと知る旅だった。

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数日あれば2 [癌と経過]

「台湾には友人がいるよ。今たしか国にいるはず。」

パソコン画面を見つめていると、息子が突然言い出した。

すぐさま連絡を取り合った青年二人。台湾で会うことになった。

つまり、急遽親子二人の旅になったわけである。

とはいえ、ツアーはどこも締め切られた後で、ホテルの空室状況も[×]印ばかり。さあどうする。空港ロビーでホームレスか?そもそも座席はあるのか?

これ以上のことは出来ないと、とりあえず眠り、翌日旅行社で直接かけあうことにした。

翌朝足早に向かった旅行社では、さすがに餅は餅屋というところで、出発日間際ではあったものの希望駅から徒歩圏のホテルに部屋が見つかった。
どこに泊まるかより、先ずは飛行機の確保が先に立つので調べてもらうと、なんと座席は残り二席とのこと。悲鳴のように「とにかく押えて!!」というと、担当の若いお姉さんはカウンター後方のパソコンにひとっとび。最後の2席を確保できた。瞬殺である。

ふとした瞬間に自分の置かれている状況は頭をよぎるけれど、慌ただしくゴリ押しでも事を進めると、その間は目の前のことに集中できるものだ。特に今回のような縛りがあると、何とか突破しようと頭脳も体もフル回転させられるものである。文字通り「窮すれば通ず」。

保険やらWi-Fiやらの支払いをすませ、帰り道でリムジンバスを予約した。次の診察日、担当医に「〇日から〇日まで台湾に行ってきます。入院日前には戻ります。」と伝えたら、「はい。台湾いいですねぇ。」と返事が返ってきた。

よし、大丈夫。
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数日あれば [癌と経過]

 春になれば、娘の住むヨーローッパを旅するつもりだった。見たい彫刻があった。触れたい景色があった。パスポートが切れていないか確認し、4月にするかそれとも5月にしようか、どのくらい滞在しようか。考えるのは楽しい時間だった。
でも生身の体は機械のようにはいかない。修理が終われば即元通りというわけにはいかないのだ。手術と治療になれば今年の長旅は無理だろう。良くなったら、体調が戻ったらまたいつか・・。
 そして、旅はいつ来るともわからない先に持ち越されてしまった。


 でも、具体的に進んでもいなかった「春になれば」と、溜息まじりの嘲笑にも似た「いつか」の話の違いはどこにあるというのか。具体的に何の動きもないまだ来ない先の話という意味では、どちらも大差ないのだ。
 入院そして手術。その後に続く一連の治療スケジュール。「いつか」ではない現実が突き付けられている今、その日までの毎日がクリアになった。普段なら何気なく予定を書き込むだけの壁掛けカレンダーの枡が、厚みを伴う時間という板になった気がした。

 何かしなくては。ここに刻印せねば。

 全身の精密検査はけっこう堪えるかも知れない。検査の翌日は休息日としよう。手術はこの日だから、前日には入院手続きのはず。
 そんな風に日にちを絞っていくと、入院前に数日の空白が生まれた。何をしてもいい自由時間が可視化した。
私はパソコンを開いた。
 これだけあれば、欧州旅行は無理でも国内なら大丈夫だ。手術後は温泉は無理だし、今のうちに外湯めぐりもいいかもしれない。それならと、九州の温泉地帯を巡るプランを先ず考えた。音楽の盛んな福岡を経由して戻るのはどうだろう。
 ところが、何せ予約するにも直前。スケジュールは強硬。移動距離も思ったより長く、いろいろと組み合わせを変えてもうまくいかない。
 これはダメ出しをされているのか?と思い始めた時に、ふと台湾の情報が飛び込んできた。日程は十分。ただし、ツアーはどれも締め切られた後。当たり前と言えば当たり前だろう。これはもう、個人旅行で行くしかないか。言葉もわからず、思い付きでいく個人旅行。果たして無事に行けるのか、そして期日までにちゃんと帰ってこれるのか?こんな状態では気を遣わせるに違いないので、友人を誘うわけにもいかない。そもそも私のフットワークの軽さは折り紙付きで、普段ですら付き合いきれないのに、こんな直前の誘いに乗ってくれる友人は皆無だろう。
 そんなこんなで「行く!」とは決めたものの、次の一歩が出ないままパソコンの前でフリーズする私。

告げる告げない  [癌と経過]

 帰宅後、家族に結果を告げた。仕事や学業で家を離れた子供達にも連絡をした。忙しいだろうからとメールで告げたら、すぐに電話が鳴った。時差のある海外からも、既読と同時に返信が来た。
 幾つかの連絡先に電話やメールで事情を説明し、お詫びと共にしばらくの空席を伝えた。
同世代の友人たちにも告げた。もしかして検査から遠のいていたら、これをきっかけに検診に行ってくれたらという思いからだった。
 同じ病から立ち直った友人には一番先に伝えた。彼女の声が一番に聞きたかった。彼女が闘病中、私はどれほどの思いやりを持って彼女に接していただろうか。もしかしたら知らず知らずのうちに無神経な言動を取ってはいなかっただろうか。わが身になってやっと彼女の気持ちに添えたような気がした。

「乳癌になっちゃった・・・。」

 メールの文字から、彼女の綺麗な明るい声が響いてきた。
「大丈夫よ。お守り送るわね。」
 彼女がわざわざ足を運び願掛けしてくれたというお守りは間もなく届き、以来ずっと私のそばにある。


 あちこち速攻で連絡をしたにもかかわらず、検査結果を待っていた妹には連絡しなかった。告げないことが返事だった。妹が知れば母に伝わる。母がどれほどショックを受けるかを思うと、おいそれと話すことは出来なかった。いつ言おう。ずっと黙っているわけにはいかない。精密検査の結果が揃った時?入院日?術後?まさかね。


「告げる」或いは「告げない」

事実は一つなのに、なんと難しい事か。
 特に今回のようなステージでは、知識さえあれば冷静に対応できるレベルなのだ。心配なのはわかる。しかしそれは多くの場合、告知を受けた本人ではなく聞いた側の不安を刺激されたことによるものなのだ。告げたら最後、病名が独り歩きする。

「頼りにしているのに」
「あなたがいなくなったら、私はこれから先どうすればいいの」
病気のステージも高い生存率も、説明をしたところで無駄である。
 自分の感情に飲み込まれてしまう人を、そこから引き上げるエネルギーは私にはない。今一番大変なのは、当事者である私なのだ。
 自分の精神的な負担を増やすことは一切やめよう。

 そうして私はギリギリまで告げずにおこうと決めた。


発見3 [癌と経過]

細胞診の診断結果は「悪性」だった。

家族の同行がなくてよかった。己を横に置いて、家族の受けるショックにも対処せねばならなかっただろう。そうすれば医師の説明を聞く際にきっと隙が出来ただろう。一人だったお陰で、自分の事だけを考えればよかったのは幸いだった。


 ここまでの検査では、乳房表面からは小さな粒としか思えなかった腫瘤だったが、今回3Dで見せられた映像では、腫瘤は胞を破り乳房深部にむけて浸潤し始めているのが確認できた。血流やリンパに乗ると転移の可能性がある。ホルモン受容体のみ陽性のため抗がん剤投与はなされない。抗がん剤の大変さは身近に知っている。私の年齢と体力では回復に長い時間がかかったであろう。これが不要というのは大きな救いだった。その後も淡々と説明が続けられ、私は黙って聞いていた。既に治療のスケジュールは決まっており、私はそのレールに乗って運ばれていくだけなのだ。

 引き続き告げられた手術日は その日より三週間後であった。感情が途切れたまま聞いていた頭の隅に、小さな疑問符が立った。私は尋ねた。

「先生、手術まで日数があるという事は「初期」ですか?」

「はい。」

間髪入れず力強く担当医は仰った。

あぁ、早期発見なのだ。高確率で助かるのだ。

漂う気持ちに錨がおりた。

 手術は患部の摘出と、リンパ節転移の有無を調べるために腕の付け根付近の切開があるので都合二か所を切るという。その場でリンパへの転移が見つかればリンパ節ごと切除。のちの切除部位の精密検査で転移が見つかれば、再度手術になるという。乳房を切ることは惜しくない。少しでも存命率の高い方でお願いしたいと前のめりで全摘を望んだが、今回のケースでは生存率は「変わりなし」ということだった。それなら、術後の負担が少ない方がいいかも知れない。自ら言い出しながら迷い始めた私にドクターは、「次回、ご家族を交えて説明する日があります。その日までに決めておいてくださいね。」と猶予をくださった。(実際には,最初にドクターの仰ったように温存で行われた。)


 手術までにいくつかの精密検査があるので、その予約を済ませ、術後必要な患部保護ベルトを購入すると病院を後にした。ひとり駐車場に戻り、時系列でしなければならないことを頭の中に並べ、エンジンをかけた。することは沢山あったが、私は何よりも先に美容院に行き髪を切った。抗がん剤は使わないので副作用による脱毛はないとはわかってはいたのだが。
 今から思うと、これから始まる治療に対する「覚悟」だったのだろう。
 行きつけの美容院の鏡に映る、強張った己の顔がそれを物語っていた。


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